金平茂紀(代表理事)
1953年に北海道旭川市で生まれた金平は、父親の仕事の関係で、子ども時代は引っ越しを繰り返した典型的な「転校生」だった。北海道では地元の旭川東高校に入学するが、その後、またもや父親の転勤で東京の都立西高校へと泣く泣く転入。東京大学文学部社会学科に進学したが、1970年代後半のキャンパスは、学生運動の余韻と新しい社会意識(しらけ)が交錯する場だった。高校大学時代にリアルタイムで経験した三島由紀夫自衛隊乱入割腹事件や連合赤軍事件、連続企業爆破事件などは、その後のこの社会をみる批判的な眼差しを形成する土壌の一部となった。また、60年代から70年代のカウンターカルチュアの洗礼を受けた世代でもあった。今もジョン・レノンを敬愛する。
1977年に、TBSに入社し、以降一貫して報道の現場に身を置いた。社会部記者としてスタートし、ロッキード裁判や原水禁運動、原発問題、死刑制度、障がい者解放運動をめぐる報道などにたずさわった。1988年には「JNNニュースコープ」の副編集長に。ちなみに『ニュースコープ』の田英夫、古谷綱正、入江徳郎、田畑光永各キャスターは品位のある報道人だった。
1991年から1994年にかけてのモスクワ支局長時代は、まさにソビエト連邦崩壊という世界史的激動の現場に立ち会うこととなった。この歴史的出来事のさなか、TBSモスクワ支局は世界に先駆けて、ゴルバチョフ、エリツィン両大統領の単独インタビューを遂行した。また1993年のモスクワ擾乱事件での徹底した現場取材は内外で話題となった。モスクワから帰国後、「筑紫哲也NEWS23」編集長に就任。以降8年半、筑紫キャスターにつかえて同番組のかじ取りの一角を担った。と同時に、自らも現場取材を続け、数々の特集を制作し放映した。
2002年から2005年にかけてはワシントン支局長を務めた。アメリカ合衆国が9.11同時多発テロ事件の衝撃からイラク戦争へと突き進む時代。イラク戦争時のコリン・パウエル国務長官への単独インタビュー取材などで、金平は民放記者単独で初めての「ボーン・上田記念国際記者賞」(2004年度)受賞の栄誉を得た。前述の通り、金平は1994年に「筑紫哲也 NEWS23」編集長に就任。テレビ報道におけるリベラルな言論空間の確立に尽力する。筑紫が掲げた「多事争論」の精神をいかに番組として血肉化するか。筑紫は、メディアが持つべき三つの使命を高らかに宣言していた。
1.権力への監視を続けること(Watchdog)
2.少数派となることをおそれないこと(Minority)
3.多様な見方を提示し自由の気風を保つこと(Diversity)
2005年、金平はTBS報道局長に就任、その後、取締役へと役職も変わるが、この間も「報道局長業務外日誌」などの執筆を続け、組織内部の矛盾やメディアの危機を自ら発信してきた。その後、当時の経営陣と対立し、2008年からはアメリカ総局長としてニューヨークへ赴任。コロンビア大学東アジア研究所の客員研究員を務めつつ、オバマ政権の誕生という歴史的瞬間を取材した。
2010年、日本に帰国した金平は「報道特集」のメインキャスターに就任。自ら現場の最前線で取材を行うスタイルは異彩を放った。キャスターとして、アフガニスタンやイラク、リビア、シリアなどの現場からも最新の情勢を伝えた。またロシアによるウクライナ侵略戦争直後いち早くウクライナ入りし、その後、プーチン大統領の盟友ベラルーシのルカシェンコ大統領への単独インタビューを決行した。
また金平は『沖縄ワジワジー通信』などを通じて、基地問題に揺れる沖縄の不条理を伝え続けている。「ワジワジー」とは沖縄の言葉で、込み上げてくる怒りを指す。彼は、本土の人間として沖縄の痛みに寄り添うのではなく、沖縄が置かれた不条理な構造そのものに対して、自身の言葉で怒りを表現する。
金平の報道活動の特徴は、映画や音楽、アートといった文化全般にも及ぶことだ。ミュージシャンや詩人、文学者との深い交流がある他、国内外のドキュメンタリー作品に対し、鋭い洞察に基づくコメントを寄せている。権力に擦り寄るメディアの姿を厳しく批判する一方で、真実を記録しようとする人々の熱量を支援する。
2022年、TBSを退社。組織の後ろ盾は全くなくなった。だが、「個」のジャーナリストの活動はむしろ加速している。日本ペンクラブでの言論表現委員会委員長として活動も継続中だ。
さて、2026年。
金平茂紀が新たに挑戦しようとしている情報発信拠点(IMAGINE)の創造は、SNS全盛時代における「新しい公共」を構築するための、過去からの伝承を試みる挑戦でもある。